日本という国 〜その2〜

 いつの間にかこんな国になってしまっていた。それが今の正直な印象である。

 

 いや、実はうすうすこうなることはわかっていた。多分良識のある学者の皆さんがさまざまに分析されているので今更僕如きが、という気もするが一応自分の中での分析をしておきたいと思う。

 

 もともと日本という国が大好きというわけでもなく、かといって嫌いでもなかった。それなりに国を愛していたのではないかと自覚している。単純な言い草だが、オリンピックやスポーツの世界大会を見るとつい日本選手やチームを応援してしまうというのはその現れであると考えている。

 「愛国心」ということを声高に叫ぶ人がいる。日の丸の国旗化、君が代の国歌化といったことが進行した一時期があった。それでも今ほどきな臭い感じはなかったように思う。危機感を募らせたのは安倍前総理がこの国を「美しい国」にするといったあたりだ。この言葉には当時から胡散臭い響きを嗅ぎ取っていた。

 そもそも「愛国心」という言葉にはどこか偽善的な、そして過去にいろいろな国を誤った方向へ押しやった危ういものがある、と感じていた。〇〇心というからには内心のことであり、外からとやかく言われるものではない、と思う。この言葉を聞くと連想する物語の一場面がある。デ・アミーチス作の『クオレ物語』の中にある話で、船旅中、ある少年が、自分の国の悪口を言われ、その発言者に食ってかかるという部分である。このクオレ物語自体、イタリアの少年たちに愛国精神を説くために書かれたと言われているのだが、愛国心とは自分の国が侮辱された時などに自分の内側から思わず知らずに湧き上がる思いなのではないか。そしてそのような思いは、国民に愛される国であってこそ人々が育んでいく思いではないか。

 

 今、そのような意味での、日本を愛する人がどれだけいるのか。「俺は心からこの国の行く末を案じ、愛している」と言える人が果たしてどれだけいるのか。口先だけでいうのは簡単である。本当にこの国のことを憂える人が多いなら、国政選挙の投票率があれほど低くはならないはずである。