国とは何だろう2

 こんなに「国」のことを書くつもりはなかったのに。ブログを始めてから国のことばかり書いている気がする。今61歳なのでまあ長ければあと20〜30年この国にお世話になることになるのかもしれない。しかしながらこの国のことを憂えているのは、格好をつけているのでも何でもなく、次世代のため、なのだ。そこには自分の子どもたち、教え子たちも当然含まれる。彼らのために、まっとうな、生きやすい国を残したい。このままではとんでもない国になってしまう。今の日本人を見ていると、そして政治情勢を見ているとあながち大袈裟ではないところが怖い。それは憲法が変わることで動き出してしまう。今の自民党改憲草案はとんでもないものになっている。大半の政治無関心層を鑑みるとそんなに遠い世界のことではない気がするのだ。東京五輪が止まらないように国の変貌も止まらないのだろうか。

 ここで考えたいのだが、では国とは何か、ということだ。言い方を少し変えるなら、僕たちが国を意識するのはどんな時なのか、ということだ。常に国内政治や国際情勢に関心が高い人はともかく、そうでない人はどうか。自分も長い間そうだった。今思い起こせば、一番身近なのは、現状においては皮肉に聞こえるが五輪に代表される国際スポーツの大会だろう。世界選手権などの国際大会がわかりやすい。最近では、テニスの大坂なおみ選手、ゴルフの渋野日向子選手、松山英樹選手、最も新しいところで笹生優花選手。いずれも全英、全米、全豪などの大会覇者だ。彼ら彼女らが優勝するとテレビのテロップにすぐさま流れる。五輪開催中はメダル獲得のたびに流れる。そして日本人は思う。「快挙だ!」と。そして彼ら彼女らに「同じ日本人として勇気をもらった」と表現する。五輪開催への反発から「スポーツ選手に勇気などもらったことなどない」という意見も散見されるが、僕自身は、わりと単純でミーハーなところもあるので、「勇気をもらった」ことを否定はしない。ではその心理はどこから来るのか、その元を手繰り寄せてみるとー自分の日本人としての自覚性、アイデンティティー、日本という国への同調性、ということなのだろう。それは必ずしも自国を愛する、という感情とは必ずしもピタリと一致するわけでもない。しかし少なくない日本人が同じ日本人の「快挙」を少なからず「誇り」に思うのだ。

 では、アイデンティティーや同調性そのものはどこに起因するものなのだろう。それには様々な理由づけが可能だろうが、僕自身が今、考え、感じているのは、その根拠自体がかなり薄弱なものなのではないか、ということだ。

 例えば大きな世界大会で日本選手と外国選手が闘っていたとしよう。今まで確実に日本選手を僕も応援してきた。なんの違和感、疑問も持たずに。単に同じ日本人、同じ国に住んでいる、というだけで? 大坂なおみ選手は日本国籍も持っているが、日本在住ではない。でも応援する。近年、日本に拠点を置いていない有名人は少なくない。では同じ日本に住んでいるからというのは日本人を応援する理由としてはあてはまらない、やはり国籍か?国籍はそんなに大事なものなのか?

 今、自分が応援する有名選手、人物がいたとしてそれは日本人だから、というだけの理由ではないかもしれない、と思い始めている。その人物のことをどれだけ身近に感じているか、ということと深く関係している気がする。その情報は、自分からわざわざ取得しにいかない限り必然的にメディアから与えられるもの、すなわち日本人に対する取材が多いのでいきおい日本人が一番身近になる率が高い、となろう。その人物の境遇や努力をよく知っているから、と。

 このように考えてくると、単に日本人だから、という理由だけで日本人を応援する必然性はなくなる、ということになる。

 多くの声を無視して強行される東京五輪を僕は見ない。その五輪を今のメディアは間違いなく、何事もなかったかのように五輪の中継やニュースを垂れ流すだろう。うちの家族もそれを見るだろう。それを横目に、見るな、とも言えず、ただストレスだけが溜まっていく数十日間、考えただけでも憂鬱だ。しかしここまで国についての考察を進めたおかげで、日本選手を応援する呪縛からは逃れられた。五輪は見ないが、これからの世界スポーツ、自分の見方が明らかに変わった、と感じる。それは少し前からその兆候があった。大坂なおみ選手だ。まっとうな社会性のある発言をし、スポンサーのナイキも彼女の姿勢を後押しした。そのような選手をこれからは応援したい。そういう意味では、このつまらない五輪騒動もあながち無駄ではないのかもしれない。物事の本質を見極める目をこれからも磨かなくてはならない、とこの歳になって改めて決意させられた次第である。