東京五輪は中止せよ

 今、自分の中ではこのテーマが最重要と思われる。現在はまだ中止の決定は出ていない。本日付けの毎日新聞山下泰裕JOC会長の五輪強行への理解を求める談話が掲載された。隣の記事は尾崎治夫東京都医師会会長の談話だ。一方で朝日新聞が五輪のスポンサーでありながら五輪中止を求める社説を載せ、そちらに舵を切った。僕のTwitterタイムラインでは山下談話への批判が沸騰している。昨日はアメリカが日本への渡航中止の勧告を行い、海外渡航警戒レベルを最高のレベル4にあげ、グテーレス国連事務総長による五輪開催中止につながる発言があった。中止に向けての活動が活発化している印象がある。

 それでも日本はこの五輪を強行するのだろうか。準備を進めているスタッフは着々と準備を進めているのでこのまま進むとしか思えない、と言う。仕事ではあるが、もし中止ということにでもなれば自分たちのしていることはすべて水疱に帰すということになる。それを考えるとひどく虚しくもなるだろう。想像できる。しかも損切りの度合いは日増しに嵩んで行っている。税金を払っている身としてはいたたまれない。コロナ禍という不測の事態とはいえ、もはや人災レベルであることは誰の目にも明らかだ。

 五輪が中止になることは本当に残念だ。五輪が好きな度合いからすれば僕など平均以上のレベルだと思う。今でも思い出すのは片肺五輪(これも皮肉な話だが)だったロサンゼルス五輪だ。今は亡き父と家でよく見ていた記憶がある。過去の五輪の中で一番見ていたかもしれない。開会式のファンファーレも印象的だ。時々耳にするところを見ると名曲の部類に入るのだろう。トランペット経験者からすると難曲なのだが^^;  五輪競技者たちのあの、肉体的にも精神的にも自分を極限に追い込んだ人間たちの闘いはやはりすばらしい。勝者も敗者も。いくつもの感動をくれた。それは事実だ。

 しかし、それと五輪のあり方、今回の強引な開催に向けての運営の仕方はどうしても是認できない。次第に五輪というものから気持ちが離れていく自分が厳然とここに存在する。その事実が悲しい。今回英断を持って中止とされようが、危険性を侵してまで開催されようがそれはおそらく変わらない。難病を克服してパリ五輪に出るであろう池江璃花子選手をフランスへ応援に行こうと妻と語っていたささやかな夢は叶うことはないだろう。もう五輪はいいや、という諦めの中に自分がいる。

 五輪好きだったはずの僕が、なぜか東京に招致されても浮き立たなかった。北京もリオも普通に楽しんで見ていた。でも東京に来る、と決まった時、間違いなく違和感を持った。今思うとその直感は正しかったのだ。それは多分時の政権の胡散臭さと無縁ではない。この政権下で行われる一大イベントが信用できるものになるはずがない、とどこかで感じていたのだと思う。誘致贈賄問題、復興五輪、環境に優しい五輪、節約五輪。全部嘘だった。おまけに五輪への動きが始まるや、エンブレム問題、メイン会場問題、マラソンコース・実施時期問題、トライアスロン実施会場の水質問題とケチのつき通しだった。最近では森元組織委員長の問題発言、開会式演出責任者の差別的企画の発覚と辞任もあったのは記憶に新しいところだ。メイン会場の仕様も今ひとつの出来らしい。建築の専門家によると世界に見せるのは恥ずかしい代物だとか。それだけでも中止するに値するのではないか。

 政府、五輪関係者は「安全安心」を連呼する。しかしこの感染状況と医療崩壊の中でどこを見れば「安全安心」を信じられるのか。どうして五輪期間中クラスターが、それも変異株でワクチンの効用も未知数なクラスターが発生しないと楽観できるのか。五輪参加選手、関係者はもちろん、一般人の感染者はどこの病院が診てくれるのか。その煽りで感染症以外の病人や怪我人を見てくれる医療機関は確保されているのか。そんな想像すらできないオメデタイ連中に我々は命を預けなければならないのか。

 仮になんとか閉会までこぎつけたとして、表向きは「よかったよかった」と政府、五輪関係者はいうのだろう。しかしその陰でいくつもの尊い命が奪われているだろう。メディアの報道は期待できない。そんなことはなかったことにされるのがオチだ。

 この日本が先の戦争を避けられなかった、とことんまでボロボロにされるまでいくしかなかったというのが今実感としてわかる気がする。心ある人々は確かにいる。心あるメディアもジャーナリストもいる。しかし大きな流れを止めるには至らない。こうして亡国へ突っ込んでいくのだ。多くの日本人にはこの危機を理解できない。いや信じないのだ。これはさながらカッサンドラの予言である。