感受性の半径

 以前Twitterで次のような書き込みを見た。以来そのことが気になっていて、もう一度その書き込みを読みたいと思って検索したのだが、結局見つからなかった。一つの科学的理論かもしれないと思い、検索の範囲を広げたのだが結局わからずじまいだった。今でもその書き込みの内容が気なっている。その理論がその発信者のオリジナルなのか引用なのか覚えていないし、そのことがわかる書き方だったのかどうかも定かではないのだが、僕自身は大いに共感し、なるほどと思ったのだった。

 

 それはおおよそ次のような内容だった。「人の感受性の半径とは、それぞれにほぼ固有のものとして決まっており、その半径を無理やり伸ばすとひずみが生じて自分で収拾がつかなくなり、精神を脅かされる(おびやかされる)恐れがある」といったものだった。内容も表現もかなりあやふやでいい加減かもしれない。しかし意味としてはおおよそそのようなものだった、と僕は理解した。

 

 今、僕の周りには、僕の精神を脅かす(おびやかす)、苛む(さいなむ)、ものが数多くあり、心が痛い。お前ごときが、勝手に世の中の問題を抱え込んでどうしてそのような問題が放置されているのかを思い悩むなど笑止千万、思いあがりだ、自意識過剰だ、という声も聞こえてきそうだが、そう思ってもらっても結構。世の中には同じ問題意識の人が多くいることもわかり、実際に果敢に行動に移して成果を上げていることを見るにつけ、心強い思いも一方でしているので。しかし、それでも僕の心は晴れない。なぜか。それはそのような問題意識を持つ人が決して多数派ではなく、心ない攻撃をする勢力も少なくなく、本来は先頭に立ってそれらの社会問題を解決すべき公権力が現在は機能不全の状態だからだ。

 

 ではどんな問題か。すこぶる個人的な関心、ということになるし、主観によるもの、ということにはなるのだが。現在気になっている問題は主に次のようなものである。

・渋谷の女性ホームレスの死 大林三佐子さん

・入管で死亡したスリランカ女性ウィシュマ・ サンダマリさん

・東京目黒区 女児虐待死事件 結愛ちゃん

・公文書改竄 赤木俊夫さんの自殺

・コロナ罹患にも入院のできない人たち

・医療現場の最前線で働く医療従事者

・コロナ禍で倒産・廃業に追い込まれた会社・店・退学を余儀なくされた大学生・専門学校生

 

 まだまだある。キリがない。心が痛む。胸が張り裂けそうになる。しかし自分には何ができるのだろうか。無力な自分。その事実にも追い詰められる。そんな時に出会ったのが「感受性の半径」の理論だ。感受性の範囲を自分の許容量を超えて広げてしまうことは自分を追い詰め、自分を見失わせることになる。自分は安全な場所にいて、何が理解できるというのか。その自己嫌悪も自分を追い込む。感受性の半径。手を伸ばし過ぎてはいけない。

 

 僕と同じようなジレンマ、自己嫌悪、悲しみ、怒りを持つ人がTwitter内にたくさんいることがわかってから少し救われている。僕のツイートにも反応してくれてありがたい。それこそ僕が救われている。今、もっともまともな神経をお持ちの方がSNS上にいる。その逆もいるけど。でも最新の(おそらくはより事実に近い)情報を発信したり、権力監視の役割を果たしたりしているメディアが少ない中、Twitterは貴重な情報ツールだと思う。