歌について

 最近スマホアプリのSpotifyを愛用している。無料Ver.なので広告が入るが、それをもってしてもあまりあるサービスである。すごいなぁと思うのは、こちらがかけてくれ、といった曲の好みから類推して僕の好みそうな曲を選んで流してくれるところだ。昭和の人間なのでその頃の曲が多いのだが、思わぬ懐かしい曲を流してくれたり、この曲はあまり知らなかったけれどいい曲だったんだなぁとしみじみ聴いたりしている。この頃は日課にしているウォーキングをしながら聴くことが多い。

 先日、夜のウォーキング中に、聴いたことのある前奏が流れてきた。さだまさしの曲だったのだが歌詞の部分に入っても曲名が思い出せない。スマホの表示を見た。”晩鐘”。ああ、そうだった。美しいメロディーにのせて、何とも言えす切ない思いの歌詞が透明感のあるさだまさしの声で歌われる。もう一度リクエストしたがなかなかかからない。これが無料版Spotifyの難点だ。今夜のウォーキングでやっと流れた。今夜は収穫がもう一つあった。谷村新司の”群青(ぐんじょう)”という曲。あまりよくは知らなかったが哀しく、一編のドラマを見るような内容の歌詞だ。調べるとそれもそのはずだ。映画「連合艦隊」の主題歌として作られた歌だった。そう言えばそういう映画があった。国威発揚のために作られた映画は好みではないので基本的に見ない。1981年の映画である。従来の戦争ものと異なる性格のものらしい。いわゆる”英雄”を描くのではなく「市井の目から見た戦争」という視点から描かれている点だろうか。You Tubeで映画のさわりを見たが、キャスティングのみならず使用されている音楽も相まってその壮大さがすぐにわかった。ちょっと観てみようかなという気にさせる作りだ。

 さて、歌の歌詞の持つ重みや深さなどについては以前にも少し触れたが、そもそも僕が歌の歌詞に注意を払うようになったのは大学時代の友人の影響による。彼は特にアメリカのビルボードと言われるヒットチャートに詳しく、日本の当時の歌謡曲にも強かった。彼によると、日本の多くのポップス好き、中でも若者は歌の歌詞に無頓着だそうだ。かく言う僕自身、洋楽であろうが邦楽であろうが耳に入るとまずメロディラインに注目し、その曲を気に入るかどうかを判断していた向きがある。それは一面仕方のないことではある。メロディは人の直感を刺激する。つまり感受性にまず訴える。それに対して、歌詞はまず理の部分を刺激するものだ。だから通常は順番から言ってメロディ→歌詞となる。しかしその友人によると「歌というのは曲と歌詞からなっているものだから、現状は歌詞がかなり”ゾンザイ”に扱われている」というのだ。これは確かにそうだと思った。

 以来、僕も歌詞に注目するようになった。すると歌というものがそれまでと異なる輝きを放つように思えてきた。歌というものは、もっと言えば音楽というものは、時に人に癒しを与え、勇気を与え、生きる気力さえ与えてくれる。中でも歌は歌詞があることでより人に直接的に訴えかけてくるものがある。「今までの人生であなたに最も大きな影響を与えた歌、曲は何ですか?」と問われたら迷うことなく次の歌をあげる。ビートルズの「レット・イット・ビー」だ。好きな歌、曲はたくさんある。しかしこの歌には心を救われることが多かった。「なすがままに、ありのままに、そのままで」と歌ってくれることで人は勇気づけられる。この歌をすでに知っていたところ、美術史学者の若桑みどり氏(故人)の著書『レット・イット・ビー』に出会って、この歌の意味を深く味わうこととなった。まさしく歌詞をよく味わう、ということだ。

国とは何だろう2

 こんなに「国」のことを書くつもりはなかったのに。ブログを始めてから国のことばかり書いている気がする。今61歳なのでまあ長ければあと20〜30年この国にお世話になることになるのかもしれない。しかしながらこの国のことを憂えているのは、格好をつけているのでも何でもなく、次世代のため、なのだ。そこには自分の子どもたち、教え子たちも当然含まれる。彼らのために、まっとうな、生きやすい国を残したい。このままではとんでもない国になってしまう。今の日本人を見ていると、そして政治情勢を見ているとあながち大袈裟ではないところが怖い。それは憲法が変わることで動き出してしまう。今の自民党改憲草案はとんでもないものになっている。大半の政治無関心層を鑑みるとそんなに遠い世界のことではない気がするのだ。東京五輪が止まらないように国の変貌も止まらないのだろうか。

 ここで考えたいのだが、では国とは何か、ということだ。言い方を少し変えるなら、僕たちが国を意識するのはどんな時なのか、ということだ。常に国内政治や国際情勢に関心が高い人はともかく、そうでない人はどうか。自分も長い間そうだった。今思い起こせば、一番身近なのは、現状においては皮肉に聞こえるが五輪に代表される国際スポーツの大会だろう。世界選手権などの国際大会がわかりやすい。最近では、テニスの大坂なおみ選手、ゴルフの渋野日向子選手、松山英樹選手、最も新しいところで笹生優花選手。いずれも全英、全米、全豪などの大会覇者だ。彼ら彼女らが優勝するとテレビのテロップにすぐさま流れる。五輪開催中はメダル獲得のたびに流れる。そして日本人は思う。「快挙だ!」と。そして彼ら彼女らに「同じ日本人として勇気をもらった」と表現する。五輪開催への反発から「スポーツ選手に勇気などもらったことなどない」という意見も散見されるが、僕自身は、わりと単純でミーハーなところもあるので、「勇気をもらった」ことを否定はしない。ではその心理はどこから来るのか、その元を手繰り寄せてみるとー自分の日本人としての自覚性、アイデンティティー、日本という国への同調性、ということなのだろう。それは必ずしも自国を愛する、という感情とは必ずしもピタリと一致するわけでもない。しかし少なくない日本人が同じ日本人の「快挙」を少なからず「誇り」に思うのだ。

 では、アイデンティティーや同調性そのものはどこに起因するものなのだろう。それには様々な理由づけが可能だろうが、僕自身が今、考え、感じているのは、その根拠自体がかなり薄弱なものなのではないか、ということだ。

 例えば大きな世界大会で日本選手と外国選手が闘っていたとしよう。今まで確実に日本選手を僕も応援してきた。なんの違和感、疑問も持たずに。単に同じ日本人、同じ国に住んでいる、というだけで? 大坂なおみ選手は日本国籍も持っているが、日本在住ではない。でも応援する。近年、日本に拠点を置いていない有名人は少なくない。では同じ日本に住んでいるからというのは日本人を応援する理由としてはあてはまらない、やはり国籍か?国籍はそんなに大事なものなのか?

 今、自分が応援する有名選手、人物がいたとしてそれは日本人だから、というだけの理由ではないかもしれない、と思い始めている。その人物のことをどれだけ身近に感じているか、ということと深く関係している気がする。その情報は、自分からわざわざ取得しにいかない限り必然的にメディアから与えられるもの、すなわち日本人に対する取材が多いのでいきおい日本人が一番身近になる率が高い、となろう。その人物の境遇や努力をよく知っているから、と。

 このように考えてくると、単に日本人だから、という理由だけで日本人を応援する必然性はなくなる、ということになる。

 多くの声を無視して強行される東京五輪を僕は見ない。その五輪を今のメディアは間違いなく、何事もなかったかのように五輪の中継やニュースを垂れ流すだろう。うちの家族もそれを見るだろう。それを横目に、見るな、とも言えず、ただストレスだけが溜まっていく数十日間、考えただけでも憂鬱だ。しかしここまで国についての考察を進めたおかげで、日本選手を応援する呪縛からは逃れられた。五輪は見ないが、これからの世界スポーツ、自分の見方が明らかに変わった、と感じる。それは少し前からその兆候があった。大坂なおみ選手だ。まっとうな社会性のある発言をし、スポンサーのナイキも彼女の姿勢を後押しした。そのような選手をこれからは応援したい。そういう意味では、このつまらない五輪騒動もあながち無駄ではないのかもしれない。物事の本質を見極める目をこれからも磨かなくてはならない、とこの歳になって改めて決意させられた次第である。

国とはなんだろう

 この日本という国が今は嫌いだ。既に書いたが、もともとこの国がそんなに好きなわけではなかったので先の表現はあまり正確ではないかもしれない。ただ、たまたまとは言え、この国に生を受けて今までこの国に住ませてもらった、という恩義はある。さらに言えば「日本が嫌い」「日本人が嫌い」と言う時、それは具体的に何を指しているのだろう。

 例えば「中国が嫌い」と言った場合、それは僕にとっては「中国人がすべて嫌い」「中国人を見れば誰であろうと不快になる」ということを意味しない。むしろ中国人に対して敬意を払うべき点が多々あることを充分に理解しているつもりだ。ただ今の中国という「国」、もっと言えば「中国という国のあり方」は好きではない。というより怖い。北京や上海周辺、香港(当時はイギリス領だった)にも旅行で足を運んだこともあるが、今は行きたくない。でも旅先で出会った中国の人々はだいたいにおいて親切で友好的であった。

 翻って日本についてはどうか。「日本」は嫌いだが「日本人」はまた「別」か?対象が身近になれば簡単には言いづらい部分があるが・・・。個々人については当然のことながら横へ置いておくとして、「総じて」言えば、好きではない。好きではなくなった。いや、これも日本という国と同様でもともとそんなに好きなわけではなかった。自分も日本人なので全否定はできないし、はっきり嫌いとも言いづらい。しかしでは好きだったかというとそうではなかった。そして今では好きではない。

 そんなに差別をする国民だったかしら、日本人は? 差別、まではいかなくとも気に入らない個人をみんなして攻撃する、という体質がそんなにも強い国民性だったか? 明らかに反社会的姿勢だと非難されるべき発言に対して、ではなく、単に個人的な好悪の感情からとしか思えないような攻撃の仕方が目にあまるのだ。最近では大坂なおみ選手の記者会見拒否の宣言に対して、賛否の意見を冷静に述べるのではなく、Black Lives Matterへの彼女の発信を絡めて感情的に攻撃するというものを目にする。また、ワクチン差別というものもあるらしい。コロナが国内へ流入した際には、帰郷した人々に対する攻撃、医療従事者への攻撃など枚挙にいとまがない。確かにコロナ禍で神経がいらだっている人が少なくないという事実もあるだろうが、それにしても、である。陰湿なイジメ問題はコロナ以前から社会問題化していたのは周知の事実だ。昔からイジメはあったが、社会の変化とともにその様相も一変している。今はSNS絡みのいじめは深刻なものがある。海外ではそんなに耳にしないところを見ると日本に特有なものかもしれない。

 外国に住んだ経験のない身としてはあまり一方的、断定的な意見は避けたほうがよいのかもしれない。しかし、明らかに今の日本人はおかしくなってしまっているように思えてならない。

最近読んだ本

 『わたしたちが孤児だったころ』ーノーベル賞作家カズオ・イシグロ氏の小説である。今読了した。原題は『WHEN WE WERE ORPHANS』。幼い頃を上海の租界で過ごしたイギリス人男性の身に降りかかったある事件。過去の記憶をたどりながら物語が紡がれる。舞台は上海だったりロンドンだったり。中国が舞台の小説はあまり読んだことがなく、新鮮であった。物語自体はたいへん面白かった。文章も読みやすかった。もちろん翻訳で読んだのだが、訳の丁寧さがすばらしかった。偉そうに批評するなどおこがましいが、あれっ、と思う表現がなく、心地よく読み進められた。というのも最近の作家の作品で、日本語表現のおかしな(と僕は思っている)ものが多く、そのような表現が出てくるとがっかりして急に興醒めしてしまうのだ。またこのブログでも書くことになると思う。

 主人公のクリストファー・バンクスは10歳で孤児となる。父と母が相次いで失踪する事件の真相を彼が追い求めるのが物語の底流をなす。タイトルの”わたしたちが<WE>”となっている理由が当初わからなかった。読み終えてからわかった(おそっ!)。しかし実は「孤児」そのものがいろいろな意味を含んでいると考えるとこの小説の書かれた意図がまた違って見えてくる。というか深く読み込める気がする。

 カズオ・イシグロ氏の作品を読むのは2作目である。1作目は『わたしを離さないで』を読んだ。もともとこれは日本でドラマ化され、氏がノーベル賞をとった時に「この名前、どこかで聞いたような・・・」と頭の隅に残っており、ほどなく思い出した。そう、ドラマの内容が衝撃的で「こんな話よく思いつくなあ」とテレビのエンドロールに注目し、調べていたのだ。それで覚えていた。実はすごい作家さんだった。(のちにこのドラマにあの三浦春馬が出ていたことを思い出し少なからずショックを受けた。彼の役どころや優れた演技が余計にそのショックを増幅させた)ノーベル賞受賞の報を受け、イシグロ氏の本を初めて手にとることとなった。

 この小説はドラマに比べてその重いテーマを直截的には表現することなく進められていく。自分たちが定められた運命と向き合いながら青春を生きる。焦点はむしろ登場人物たちの青春群像にあり、彼らの運命との対比が痛々しく胸に迫る。

 

 本はわりあいによく読むほうだと思っている。あまり速く読む方ではないので購入しているほどには「読書家」ではないかもしれない。速読に憧れたりもするが、一方でゆっくり読むことを進める方々もおられ、とりあえずは自分のペースで読書を楽しんでいる。読みたい本がたくさんあるので困っている。

 カズオ・イシグロのようなすばらしい作家を知らなかった不明を恥じている。この歳になっても知らないことが山のように出てくる。恥ずかしい、というか、悔しい。そんなすばらしい世界に今まで触れられなかったことが。そして楽しみでもある。これから山ほどの出会いがあるのだから。それは読書の世界に限らない。さらにそれらについて書き記していけることも楽しみである。

東京五輪は中止せよ

 今、自分の中ではこのテーマが最重要と思われる。現在はまだ中止の決定は出ていない。本日付けの毎日新聞山下泰裕JOC会長の五輪強行への理解を求める談話が掲載された。隣の記事は尾崎治夫東京都医師会会長の談話だ。一方で朝日新聞が五輪のスポンサーでありながら五輪中止を求める社説を載せ、そちらに舵を切った。僕のTwitterタイムラインでは山下談話への批判が沸騰している。昨日はアメリカが日本への渡航中止の勧告を行い、海外渡航警戒レベルを最高のレベル4にあげ、グテーレス国連事務総長による五輪開催中止につながる発言があった。中止に向けての活動が活発化している印象がある。

 それでも日本はこの五輪を強行するのだろうか。準備を進めているスタッフは着々と準備を進めているのでこのまま進むとしか思えない、と言う。仕事ではあるが、もし中止ということにでもなれば自分たちのしていることはすべて水疱に帰すということになる。それを考えるとひどく虚しくもなるだろう。想像できる。しかも損切りの度合いは日増しに嵩んで行っている。税金を払っている身としてはいたたまれない。コロナ禍という不測の事態とはいえ、もはや人災レベルであることは誰の目にも明らかだ。

 五輪が中止になることは本当に残念だ。五輪が好きな度合いからすれば僕など平均以上のレベルだと思う。今でも思い出すのは片肺五輪(これも皮肉な話だが)だったロサンゼルス五輪だ。今は亡き父と家でよく見ていた記憶がある。過去の五輪の中で一番見ていたかもしれない。開会式のファンファーレも印象的だ。時々耳にするところを見ると名曲の部類に入るのだろう。トランペット経験者からすると難曲なのだが^^;  五輪競技者たちのあの、肉体的にも精神的にも自分を極限に追い込んだ人間たちの闘いはやはりすばらしい。勝者も敗者も。いくつもの感動をくれた。それは事実だ。

 しかし、それと五輪のあり方、今回の強引な開催に向けての運営の仕方はどうしても是認できない。次第に五輪というものから気持ちが離れていく自分が厳然とここに存在する。その事実が悲しい。今回英断を持って中止とされようが、危険性を侵してまで開催されようがそれはおそらく変わらない。難病を克服してパリ五輪に出るであろう池江璃花子選手をフランスへ応援に行こうと妻と語っていたささやかな夢は叶うことはないだろう。もう五輪はいいや、という諦めの中に自分がいる。

 五輪好きだったはずの僕が、なぜか東京に招致されても浮き立たなかった。北京もリオも普通に楽しんで見ていた。でも東京に来る、と決まった時、間違いなく違和感を持った。今思うとその直感は正しかったのだ。それは多分時の政権の胡散臭さと無縁ではない。この政権下で行われる一大イベントが信用できるものになるはずがない、とどこかで感じていたのだと思う。誘致贈賄問題、復興五輪、環境に優しい五輪、節約五輪。全部嘘だった。おまけに五輪への動きが始まるや、エンブレム問題、メイン会場問題、マラソンコース・実施時期問題、トライアスロン実施会場の水質問題とケチのつき通しだった。最近では森元組織委員長の問題発言、開会式演出責任者の差別的企画の発覚と辞任もあったのは記憶に新しいところだ。メイン会場の仕様も今ひとつの出来らしい。建築の専門家によると世界に見せるのは恥ずかしい代物だとか。それだけでも中止するに値するのではないか。

 政府、五輪関係者は「安全安心」を連呼する。しかしこの感染状況と医療崩壊の中でどこを見れば「安全安心」を信じられるのか。どうして五輪期間中クラスターが、それも変異株でワクチンの効用も未知数なクラスターが発生しないと楽観できるのか。五輪参加選手、関係者はもちろん、一般人の感染者はどこの病院が診てくれるのか。その煽りで感染症以外の病人や怪我人を見てくれる医療機関は確保されているのか。そんな想像すらできないオメデタイ連中に我々は命を預けなければならないのか。

 仮になんとか閉会までこぎつけたとして、表向きは「よかったよかった」と政府、五輪関係者はいうのだろう。しかしその陰でいくつもの尊い命が奪われているだろう。メディアの報道は期待できない。そんなことはなかったことにされるのがオチだ。

 この日本が先の戦争を避けられなかった、とことんまでボロボロにされるまでいくしかなかったというのが今実感としてわかる気がする。心ある人々は確かにいる。心あるメディアもジャーナリストもいる。しかし大きな流れを止めるには至らない。こうして亡国へ突っ込んでいくのだ。多くの日本人にはこの危機を理解できない。いや信じないのだ。これはさながらカッサンドラの予言である。

 

 

ヘブンリーブルー

 最近庭に朝顔を植えるのに凝っている。と言っても花好きの妻のの鉢が並ぶ中に置かせてもらうのでそんなには植えられない。品種はヘブンリーブルーという。やや薄めの涼しげなブルーの西洋朝顔だ。以前にも植えたことがあり、だいたいこの5月に植えて、夏から秋にかけて花が咲く。結構遅い季節まで楽しませてくれる。いろいろな朝顔を植えたこともある。色とりどりもいいが、今はこのヘブンリーブルーが好きだ。一色に揃えるとそれはそれで綺麗なのだ。

 曽野綾子の『天上の青』という小説がある。その冒頭にこの朝顔の記述がある。それで知った。連続殺人鬼と一人の女性の心の交流を描いた物語で衝撃的な内容である。この作家の作品を僕は結構好んで読んできた。思想的にはやや右寄りと言われたりもするし、それに類する発言も少なくないが、評論やエッセイを読むと、なるほどと共感する部分が結構多かったりもする。彼女は敬虔なカトリック教徒なのでその立ち位置からの作品が多い。僕の本棚には数だけで言えばこの作家の本が一番多いかもしれない。相容れない考えもあるので是々非々で読んでいる。

 Heavenlyblue-天上の青。素敵なネーミングだ。和名はソライロアサガオと言うらしいがあまり詩的ではないと思う。英名もHeavenlyblueではないらしくBlue Morning Gloryのようだ。正確なことを探すには至らなかったが、要はこのHeavenlyblueと天上の青(蒼とも表記するらしいが)という名称がとても気に入っていて植える、というに過ぎない。

 "Heavenly"を"天上"と訳すセンス。最初誰が訳したのか知らないがすばらしいと思う。本来"Heavenly"は"天国の"とか"神の""天の""空の"と訳すものらしい。"Heaven"は天国の意味なので形容詞の訳としてはそうなるだろう。従って"天上"にも神の響きがほのかに感じとれる。いや、神という宗教的な意味を超えてより大きな響きさえ感じる。もっと言えば人類が関わるこの世界を超えた、つまり人智を超えた大自然、全宇宙を思わせる響きだ。この名を持つ朝顔にそれを見る、というのはかなり大袈裟な気もするが、天空の澄んだ青空のような色合いを持つこの朝顔がそのような概念から遠いものだとも言えない気がする。

 今はまだ発芽してから日も浅いので花が咲くのはまだまだだが、あの美しいブルーが待ち遠しい。世間は緊急事態宣言下の地域もあり、外出もままならない。自粛生活が続く中、世界を感じることができる機会もあまりないのが現実だが、そんな時にも我々を助けてくれるものは数多くあることに感謝したい。それは例えば花であり、樹木であり、天空であり、夜空であり、星であり、月であり、太陽であり大地である。音楽があり、演劇があり、書物があり、絵画がある。身近なところに世界を、宇宙を感じることのできるものがたくさんある。それらがあるからいい、というわけではないが少なくとも自分の周りに目を向け、耳を傾ければ自分が世界の中で一人きりではないと思える瞬間がある。それを大事にしたい。それでも耐えられない時は助けを求めよう。必ずしも家族や友人が助けてくれるわけではないけれど、幸いにして現代はいろいろな手段があり、助けてくれる制度がある。それを忘れず、声をあげよう。一つの種が健気に芽を出すさまはそれだけでいろいろなことを僕に教えてくれる。

日本脱出計画3

 Twitterを見ていると、この日本という国も捨てたものじゃないな、という感覚にとらわれる。僕個人から見て、だけれど、本当に真っ当な人が数多くいらっしゃる。いや、数多くとは書いたが全国で見ると少数派なのかもしれない。僕の周りを見ても少数に見える。Twitterにこんなことが書かれていたよなどと言っても家族の反応は今ひとつ。民主主義の危機なんだけど、と言ってもピンときてはいない。おそらく全国レベルでもそんな危機感は希薄なのだろう。気がついた時には人類が血の出るような思いで獲得した人権をいともあっさりと奪われるとも知らず。日本を脱出したい理由。改悪されたロクでもない憲法のもとで日本人をやるのがもうごめんだ、というのもあるが、それよりも今の日本人のもつ精神性と僕はそりが合わないようなのだ。こちらのほうが脱出理由のメインテーマかもしれない。

 それにしても日本の凋落ぶりはすごいものがある。今頃何を言ってるのかとよくご存知の方からはお叱り、嘲笑を投げかけられそうだけれどご批判は甘んじて受けよう。職業柄それなりに時事についてはアンテナを張っていたつもりだが、その凋落の度合いがこれほどとは思わなかった。一体どこを見ていたんだ僕は、というところだ。確かに民主主義が危機に瀕していることはある程度掴んでいたので授業でも折りに触れ伝えていたのだが、事態はもっと深刻であったのか。2年ほど前に始めたTwitterが今では重要な情報源だ。フェイクニュースや誹謗中傷に使われる、という負の側面もよく聞こえてくるが、僕にとっては知らないことを多々教えてくれる知識の宝庫だ。いろいろと教えてもらった。新聞ではもはや代わりができないところまで来ている。

 もはやこの国は先進国だったのは今は昔、発展途上国というよりは後進国なのかもしれない。だとすればそんな瀕死の国を置き去りにしてお前は逃げ出すのか、放り出すのかと言われそう。家族も教え子もいるのに、と。今こそ立ち上がり、日本をよき方向へ軌道修正すべきだ、と。その通りかもしれない。

 しかし、先ほども書いたようにこのような日本になってしまった原因はどこにあるのか。単に政治が悪い、だけではないだろう。極端な人々は別としてもあちらこちらで「フツーの人」の悪意をよく見かけてしまう。「よい人」ばかりの世の中も気持ち悪いだろうが、心が萎える行為がはびこっている気がするのは僕だけだろうか。僕自身そんなに「よい人」でもないが、コロナ禍の最前線で働いている人への嫌がらせは少なくともしない。「私は選挙などに興味はないので行ったことがない」と公言するタレントを信用しない。公文書の改竄をして素知らぬ顔をして人を死に追いやることはしない。それを調べるべき職務があるのに知らん顔はしない。難民としてこの国で生きていこうとしている人を、人間としての扱いすらせず死に追いやるようなことをしない。そのような人々を野放しにしてきた国民性の未来を僕は信じることができない。この政治状況下で内閣を40%もの人が支持する国には住みたくない。でも僕の日本脱出計画は間違いなく頓挫する。どうすればよいのだろうか。